2011年12月31日土曜日

ふしぎ派

ふしぎは【ふしぎ派】橋爪大三郎と大澤真幸の教説を発展させたキリスト教の宗派。Fushigism(英)。聖書に加えて『ふしぎなキリスト教』を正典とする。

2011年12月7日水曜日

宗派間抗争と万人教祖主義

キリスト教の歴史は宗派間抗争に彩られている。それに対して、仏教は、さまざまな宗派に分裂したにもかかわらず、宗派間抗争はほとんど発生していない。その理由は、おそらく、先人の教えよりも個人の悟りを重視するという万人教祖主義的な発想が仏教の根底にあるからではないかと思われる。仏教における数少ない宗派間抗争(たとえば日蓮正宗と創価学会との間の抗争など)においては、それらの宗派における万人教祖主義的な発想の欠落がその背景にあるのではないだろうか。

2011年10月6日木曜日

系統樹と分類樹

独創的な宗教を作りたいと思う者は、宗教の系統樹ではなく、宗教の分類樹に新たな枝を追加するという考え方でそれを作るとよい。なぜなら、系統樹の考え方で作ることができるのは既存の宗教の亜種に過ぎないが、分類樹の考え方に依拠するならば、どこに空白地帯があるかということが明らかなので、独創的な宗教を作りやすいからである。

有神論を持つ現存のすべての宗教は、おそらく一神教または多神教のどちらかに分類され、どちらにも分類されない宗教は存在しない。したがって、一神教でも多神教でもない宗教を作れば、それは独創性の高いものとなるだろう。たとえば、神の一部分は神であり、神は無限に分割することができる、という教義を持つ宗教を作れば、それは一神教にも多神教にも分類することができず、かなり独創性の高いものとなるだろう。

2011年8月21日日曜日

デッサン

宗教を作る場合に注意しなければならないことの一つは、教義を構成する個々の命題の間に矛盾が発生しないようにすることである。宗教を作ることと論理の能力との間の関係は、絵を描くこととデッサンの能力との間の関係に似ている。

2011年8月4日木曜日

不寛容の原因は信仰である

「一神教は不寛容で多神教は寛容だ」と思っている日本人が多いようだが、それは間違っている。一神教か多神教かという差異は、不寛容か寛容かという差異には影響を及ぼさない。不寛容か寛容かという差異を生んでいるのは、信仰を持つか持たないかという差異である。信仰を持つ者は、その信仰が強ければ強いほど、自分の信仰とは異なる価値観を容認することができなくなるのである。

2011年8月2日火曜日

第零芸術

宗教は第零芸術である。人類が生み出した最初の芸術は宗教であり、音楽、舞踏、文学、建築、絵画、彫刻、演劇、映画などの他の芸術は宗教から派生したものである。

2011年5月15日日曜日

スーツ教

スーツきょう【スーツ教】「外出時にはスーツを着用しなければならない」という戒律を持つ宗教。suitism(英)。真夏に屋外でスーツを着用している人々の多くはスーツ教徒である。大多数のスーツ教徒は近所のコンビニ等へ出かける場合にはスーツを着用しないが、そのような場合も例外ではないと主張する少数派が存在し、そのようなスーツ教徒はスーツ教原理主義者と呼ばれる。

2011年5月5日木曜日

信者になるな、教祖になれ。

万人教祖主義は、人間と宗教との関係に関する問題提起である。これまでの人間と宗教との関係は、人間が宗教を「信じる」というものだった。しかし、人間は、いかなる宗教も「信じる」べきではない。あらゆる信仰は洗脳状態である。

では、人間は宗教を捨てるべきなのか。これもまた正しい判断ではない。人間は宗教を捨てるべきではない。それは人類の文化の一部として価値を持つものだからである。

これからの人間と宗教との関係は、人間が宗教を「作る」というものであることが望ましい。宗教の創作は、あらゆる人間にとって意義のある文化的活動である。創作されたすべての宗教は人類の文化遺産となり、後世の教祖によって再利用される。

信者になるな、教祖になれ。

2011年3月29日火曜日

宗教が作成されたプロセスに関する知識

信仰は100%であるよりも半信半疑であるほうがよい。信仰が100%に近づけば近づくほど、その信仰がもたらす弊害は増大する。

自分の宗教を自分で作ることは、信仰を半信半疑に留めておく上で有効である。すなわち、他人が作った宗教は100%の信仰に陥る危険性が高く、自分で作った宗教はその危険性が低い。その理由は、宗教を自分で作った人は、その宗教が作成されたプロセスに関する知識を持っているからである。プロセスを知っている人は、それが人工的に作られたものであるということを常に意識せざるを得ない。その意識が、100%の信仰に陥る危険性を低下させるのである。

他人が作った宗教を信仰する場合も、100%の信仰に陥る危険性から身を守りたいならば、可能な限り、その宗教が作成されたプロセスに関する知識を持つほうがよい。

2011年3月23日水曜日

日本人的な宗教観

日本人に対して「あなたの宗教は何ですか」と質問すると、その大多数が「無宗教」と答えるそうである。しかし、日本人の多くは、正月には初詣に出かけ、葬式では故人に合掌し、クリスマスが来るとイエスの誕生を祝う。

多くの日本人は、宗教を、ファンタジーの一種として認識しているのではないだろうか。すなわち、宗教を信仰しているという自覚はないものの、それを無価値なものとして切り捨てるのではなく、生活を精神的に豊かにしてくれるものとして尊重しているのであろうと思われる。

宗教に対して一定の距離を置く多くの日本人の姿勢は、きわめて好ましいものである。なぜなら、宗教を信仰すること、すなわち宗教をファンタジーではなく真実だと考えることは、さまざまな弊害を生むからである。これからの時代は、宗教をファンタジーとみなす日本人的な宗教観がグローバルスタンダードとなることが望ましい。

2011年3月22日火曜日

聖アンデレ十字

興味深いものを久留米で見た。

久留米城跡に鎮座する篠山神社に、小早川神社という末社がある。地面からの高さが百数十センチほどの石の祠である。祭神は毛利秀包(1567-1601)。彼は、シマオ(Simao)という洗礼名を持つキリシタンだった。

小早川神社の興味深い点は、「聖アンデレ十字」(Saint Andrew's Cross)と呼ばれるX字形の十字架がその扉に刻まれていることである。聖アンデレ十字は、禁教時代に造られたキリシタンの墓に、被葬者がキリシタンであることを隠すためにラテン十字の代わりとしてしばしば刻まれた十字架である。

小早川神社の創健者はキリシタンだったのか否か。もしもキリシタンだったとすれば神社を創建した理由が謎であり、キリシタンではなかったとすれば十字架を扉に刻んだ理由が謎である。

2011年3月16日水曜日

バナナはデザート教とバナナはおやつ教

ばななはでざあときょう【バナナはデザート教】「バナナはおやつではなくデザートとして食べなければならない」という戒律を持つ宗教。banana-is-dessertism(英)。

ばななはおやつきょう【バナナはおやつ教】「バナナはデザートではなくおやつとして食べなければならない」という戒律を持つ宗教。banana-is-snacktism(英)。

2011年2月2日水曜日

宗教を自分で作ることのメリット

自分が信仰する宗教を自分で作ることのメリットの一つは、それによって盲信を防ぐことができるという点にある。

人間にとって宗教は、薬にも毒にもなる存在であり、取り扱いが難しい。宗教が毒になる最大の原因は盲信である。他人が作った宗教に対する信仰は、盲信に陥りやすい。しかし、自分が作った宗教の場合は、主体的な教義の選択が信仰となるため、盲信に陥りにくい。

2011年1月14日金曜日

四神教

しじんきょう【四神教】青龍、白虎、朱雀、玄武という四柱の神(総称して四神(しじん)と呼ばれる)を崇拝の対象とする宗教。quadratheism(英)。